政治を考えるヒント

私は政治家やジャーナリストなど、直接政治に関係のある立場ではなく、一市民です。最近、日本の政治に関する不信・心配が強くなってきています。自分の考えをまとめつつ、何かヒントになるようなことを書いていければと思っています。

奨学金という名前は学生ローンに変えるべき

給付型奨学金、つまり返済義務のない奨学金の導入が検討されている。これ自体は良いことだが、財源をどうするのか、どのような学生が使えるようにするかなど、実現までに色々な課題をクリアしていく必要がある。

一方で、現在主流の返済義務がある奨学金に関して、今すぐにできて、効果も高いと思われる方策が一つある。それは、奨学金という名前を変えて、学生ローン、あるいは学資ローンなどに名称を変更することだ。一般の金融機関ではそういうプランはすでにあるが、世間一般で奨学金と呼んでいるものを、正式に学生ローンと呼んだらよいのではないか、ということです。

なぜ、呼び方を変えるだけで効果があるのか? それは、ローンという呼び方をすれば、返済義務があることが明確になるからです。奨学金返済の滞納をしている人の半数は、借りる段階になって初めて、返済義務があることを知るそうです。これは色々なことを示唆していて、

  • 返済義務があると分かっていたら進学していない人まで進学している可能性がある。
  • 返済義務について知るタイミングが遅いとは言うものの、返済義務があることは借りる段階では分かっている。それでも返さない(返せない)人が多数いる。つまり、お金を借りて進学した成果が上がっていない、あるいは、成果を感じていない可能性が高い。

奨学金は借金であることが明確になれば、借金してまで進学をするべきなのかきちんと考えることになるし、学生生活に対する姿勢も変わってくるのではないだろうか? 今の奨学金という名称は、知らないうちに借金を背負ってしまうという不幸な状態を生み出している可能性がある。名前を変えるだけ、簡単に防げるのではないだろうか。

消費税をめぐる茶番劇

参議院選挙を前に、与党も野党も来年の消費税増税を延期という話で落ち着きそうになっている。与野党ともに同じ考えで、国民にとってはもちろん消費税を上げなくて済むのであれば歓迎だろうから、それで終わりの話のようだがそうでもない。民進党は、自民党が消費税増税と言うなら国民に信を問うべきと主張し、自民党の安倍首相は延期のお墨付きを他の国からもらおうと、世界経済の危機をサミットで訴えてみたものの同意してもらえずといった状態。どちらも、一見、国民の気持ちを考えているようで、実際に気になっているのは選挙の票だけであることバレバレの動きをしている。

 

そもそも、消費税を上げるのにはそれなりの理由はあったはずで、では何故今は延期した方が良いのか、その場合元々の懸念である財政上の話はどうなるのか、という話が全く聞こえてこない。さらにそもそも論を言うと、将来財政が厳しくなるので国民全体の負担をお願いします、同時に政治も身を切りますという話だったが、議員定数削減の話も十分に進んでいないし、消費税増税の決定後に国会議員の給料が上がっている。これには、震災後に一時的に下げていたものを元に戻した、という背景があるにせよ、身を切るという話と全く逆の動きであることには間違いない。
また、舛添都知事の金銭スキャンダルを通じて、国会議員のお金がいかに不透明でいいかげんに使われているかが明らかになった。政治資金規正法の改正を含めた、厳しい経費削減の話が必要だろう。議員の定数削減、経費削減で得られるお金は高が知れていて、あまり効果が無い、という説もあるが、そういうことをきっちりできない人たちが、きちんとした財政の舵取りを出来るとは思えない。

 

こういった本質的な話に触れずに、選挙対策としての増税延期、アリバイ作りに励む政治とは決別して欲しい。

舛添問題とふるさと納税

舛添都知事の問題が連日ニュースをにぎわせている。会見をするたびに高まる市民の不満の一方で、舛添さんは何とか逃げ切りのための方策を見つけているように見える。これだけ多くの都民が辞任を望んでいても、それを実現させるハードルがいかに高いのか、というのを実感させられる。

 

舛添さんの個人的な資質の問題とは別に、今回大きな問題になっている背景として、政治資金規正法というのがザル法であるということが大きい。これは過去にも何回も問題になっているものだが、政治家がこの法律をよく理解した上でうまく使えば、ほぼ自由にお金を使えてしまう。つまり、本人が「政治的な活動」と認識していれば、何に使ってもよく、その政治的な活動の認識が個人に委ねられてしまっている。舛添さんの例で言えば、浮世絵などの絵画の購入は、昔の東京に思いを馳せ、今後の東京を思い浮かべるための政治的な活動、ということだそうだが、この理論を適用すると、おいしい食事をするのは気持ちを豊かにして良い政治をするための政治活動、ということになるし、リゾートにバケーションに行くこともリフレッシュして良い政治を行うための政治活動、ということになってしまう。さすがにこれは無理だと思えば、食事やらリゾートのついでに、少し政治的な話をしたことにしておけば良い。道義的には全くおかしな話だが、法律上は問題がない。

 

法律があてにならない場合、次の頼りは議会ということになるが、議会は都民の声を代表しているのではない、というのが今回の件で明らかになった。議会が何かをするために、自民党が動かない限り何も起こらないが、辞任を求める声を上げると自分たちが舛添さんを支持した責任を認めることになる、あるいは、次の都知事選で勝てそうな良い候補が手元にいない、という内輪の論理だけで動いているということが分かってしまった。

 

そうなると、都民は自分たちで動くしかない。リコールという制度があり、当然やるべきだが、決して簡単に実現できるものではない。他に出来るのは、4年に1度の投票だけなのか? というと、必ずしもそうではなく、都政を変えていくために、簡単に出来ることが実はあるのです。前置きが長くなりましたが、ここで、ふるさと納税の出番です。今回の問題の引き金として、不必要に豪華な海外出張というものがあったわけですが、その根幹には有り余るほどの財政、というのがあります。東京は人が集中しているので、住民一人当たりにかかる費用は少ないし、企業からの税収も多い。放っておいても、他の自治体に比べてお金が集まるわけです。そして、あれば使ってしまうのが人間の悪い性。これに対する対策として出来るのがふるさと納税。つまり余りすぎて困っている東京のお金を、本当に必要としている地方に渡そう、ということです。

 

ふるさと納税というと、その地方の特産品をもらうための制度、あるいは、手続きが面倒、というイメージを持っている人が多いかもしれませんが、必ずしもそうではありません。

ふるさと納税の仕組みを簡単にまとめると、

  • 年中いつでも申し込める。
  • 通常、確定申告などの面倒な手続きは不要。
  • どこの自治体に対しても可能。
  • 年収に応じた控除額がある。
  • 手数料として2000円かかる。

一言で言うと、手続きは非常に簡単です。
ふるさと納税が出来るのはいくらまでか? 厳密にいうと、上限はないのですが、自分の住んでいる自治体に納める税金を、他の自治体に動かす、という考えで使う場合には、年収に応じた限度額があります。色々な条件が関係しますが、例えば年収500万円の場合4~6万円といったところです。これを多いと取るか、少ないと取るかは人それぞれだとは思いますが、例えば熊本地震の被災地に寄付をしよう、と考えた時にいくら寄付をしますか? あるいはいくら寄付をしましたか? 1万円を超える人は少数派ではないでしょうか?
ふるさと納税の仕組みを使うと、例えば控除額が6万円であれば、6万円を熊本の自治体に納め、手数料は2000円、ということになります。

 

最近はふるさと納税のお返しの競争が激しく、少し本来の目的と違う方向に行ってしまっている、という懸念もありますが、例えば東京都民が熊本の被災地にふるさと納税をするのは、困っている人たちを助ける一方で、第二の舛添が出てくる予防にもなり、都政に対してダイレクトに意思を伝えられる、良い方法ではないでしょうか?

2016年7月の参院選の投票準備は始めていますか?

2016年7月に行われる参議院選挙まで2か月を切った。もう投票の準備は始めていますか?

こんなことを書くと、公示前で投票日も候補者も分からない段階で何を言っているのか、という声がありそうですが、投票の準備はもう始めておくべききちんとした理由があるのです。

まず、選挙の日程が確定していないとは言え、期間は決まっていて、日にちもほぼ決まっている、と言って良いでしょう。7月10日になりそうです。立候補者もまた、現時点でかなりの情報は得られるはずです。当然、2010年に当選した現職議員は立候補する可能性は高いし、2013年の選挙で落選した人たちからも立候補者は出るでしょう。そういう情報を調べることにより、現職が過去6年で何をしてきたか、また落選した人たちがどのようなことをしてきたか、理解をする良い機会です。

公示されてから選挙までは意外に短いもので、特に注意を払っていない限り、選挙が始まったと思ったらいつの間にか投票日が来て、何となく投票してしまった、あるいは行かずじまい、となりがちです。今から情報を調べるのは、決して早すぎるタイミングではないのです。

もう一つ、早めに動いておく必要がある理由として、衆議院選挙が同時に行われる可能性がまだ残されているということです。
立候補者の仕事ぶり、人物を調べる時間が、単純に倍必要になる、ということです。
また東京都民であれば、都知事選も同時に開催される可能性が、日増しに高くなっているので、そこにも時間をかける必要があるでしょう。
予測しやすい参議院選に比べると、そもそも選挙があるのか、誰が立候補するのかも分からないので、こちらは公示されてから調べることになります。

前回のエントリで舛添東京都知事の金銭スキャンダルを民主主義に取って必要なコストと書きましたが、この問題は同時に、一般の市民が政治への参加をさぼり過ぎていたことを露呈してしまったのではないか、と感じています。政治に参加するというのは、必ずしも政治家になるということではなく、もう少し真剣に投票に取り組む、というとこから始まるのではなかろうか、と感じています。

民主主義のコスト

政治家の不祥事のニュースが後を絶たない。もっともホットな話題だと東京都知事の舛添さんだろう。東京都民でなくても、このニュースは気になる。政治家のお金の問題が出ると、少数派ではあるものの必ず出てくる意見として、「細かいことには目をつぶろう」というものがある。
つまり、細かいことばかり追求するあまり、本来政治家に求める能力に対する議論がおそろかになってしまう。辞任して選挙をやり直せばお金はかかるし、政治的な空白期間もできる。そのコストと、少々お金の使い方に問題があることのコストを天秤にかけた場合、政治を優先すべき、ということだろう。
一見、大局的な見方に思えないこともないが、この考え方には大きな疑問がある。

 

残念ながら、民主主義は必ずしも効率の良い形式ではない。もし非常に優れた人物が独裁政治を行えば、民主主義よりも良い政治を効率よく行うことが出来る。しかし、独裁政治では、上に立った人物に問題があった場合には、とんでもないことになってしまう。民主主義で選挙で人を選んだところで、必ずしも優れた人物が選ばれるわけではない。投票する人は、立候補者のことを良く知らないし、そもそも、限られた人数しか立候補しないのだから、多くの人が投票の際に感じるのは、選んでいるというよりも、消去法で消している、という感覚かもしれない。

 

いずれにしろ、選挙で選ばれたから立派、というのは幻想であり、民主主義の良いところは、間違った人を選んでしまった場合に退場させることが出来る、ということに尽きる。多くの場合、政治家が悪いことをするかどうかを有権者が予見するのは、ほぼ不可能だろう。ただし、今回の舛添さんに関する報道では、周辺の人脈から聞こえてくる声は、「まさかあの人が」といったものは皆無で、「やっぱり」とか「昔からそうだった」というのが大半だ。

 

辞任、再選挙となれば、都民にとっては高い授業料ではあるものの、多くのことを学べる機会ではあるし、都民ではない人たちにとっても、今回の件を踏まえて、政治家に対する意識が変わるのではないだろうか。これは民主主義のコストとしては、正しい使い方と思われる。